MISSION NUMBER 2
難易度
「お、なんだスーツなんて着て?」
 稲城(いなぎ)次長に声をかけられた。黒のレザージャケット、黒のTシャツの胸元にゴールドのチェーンを光らせた休日出勤の稲城次長のファッションはどこまでもホストチックだった。
「お客に会うんですよ」
 とオレは言った。
 オフィスの中央では、体型も気前も太っ腹な平塚部長が、ポケットマネーで部下にテイクアウトのイタリアンランチを振る舞っている。タータンチェックのワークシャツにチノパンツの平塚部長は、ホームパーティーでも開いているかのようだった。
 文化出版部の面々はそれぞれに寛いだ服装で、パスタやピザをぱくついている。休日出勤とはいえ、皆ひどくたのしそうだった。《親から子へ》の応募原稿がたくさん集まってきている。それを読むために出社してきているのだろう。原稿を読んでいれば幸せという連中ばかりなのだ。もっとも仕事が趣味というのはオレにしても同様だったが。
 オフィスの隅にある自分の席へと向かうオレに、
「いっしょにどうだい?」
 と平塚部長が声をかけてくれた。
「せっかくですが」
 とことわる。オレは愛妻手ずからのブランチをすませてから出てきていた。
「なんだい、スーツなんて着て?」
 と平塚部長にもきかれる。
「お客に会うんです」
 とふたたびオレはこたえた。
 そう、1年前のあの土曜日も、オレは妻が用意したブランチを食べ、スーツを着込んで休日出勤したのだった。オレはあの土曜のことを思い出していた。

*    *    *

 その日、オレの服装は、パウダーブルーのスーツにピンクのワイドカラーのシャツ、赤いポルカドット・タイと、いつもより地味だった。
「きょうは、悲しみの底に沈んでいる女性に会うんだ」
と家を出るときに、妻に自分の抑制のきいた服装のわけを話した。
「そうなの」
と妻が言った。
「でも、いつもとあまりかわらないように思うんだけど」
 その前日、オレは西荻課長代理から新たに担当する<ホンダス>の作家のデータを渡されていた。哀原真麻子(あいはら・ままこ)―仮名―47歳。
 さっそく哀原さんに連絡をとったオレは、翌日の土曜にこうして会う提案をしたのだった。オレは彼女に一刻も早く会う必要性を感じていた。
 休日で受付嬢がいない。オレは哀原さんと約束した午後1時まえに1階ロビーに降りていた。
 やがて現れた哀原さんは顔色が真っ白で、いまにも倒れそうに見えた。
「なにか飲みますか? アルコール以外ならなんでもありますよ」
「では、温かいお茶を」
 やはり受付嬢のかわりに、オレがディスペンサーに行ってお茶を用意した。
 まるで冷たい両手を温めるかのように紙コップに手をそえたままじっと動かない哀原さんの表情を、オレはそっと観察した。
 彼女は1年まえに15歳のひとり息子、礼(れい)君を亡くしていた。心臓発作だった。 
礼君は、リトルリーグのチームに加わり野球をやっていた。チームでの練習のほかに、毎朝ひとりでランニングしていた。その途中で倒れたのだった。
「わたしが病院に言ったときには、もう……」
 哀原さんが言った。
「あの子に言いたいことがたくさんあったのに。あの子だって、わたしに言いたかったことがたくさんあったでしょうに。ひとことも言葉を交わせずに、あの子は旅立ってしまったんです。たったひとりで……」
 哀原さんの頬を涙が伝った。
 オレには言葉もなかった。
 礼君の思い出を1冊の本につづりたいというのが哀原さんの希望だった。
「最後に病院で見たあの顔――わたしにはとても書けそうにないわ」
「書かなくていいじゃないですか!」
 オレは思わず叫んでいた。そして泣いていた。
 哀原さんがオレを見つめ返した。
オレは流れ落ちるぼうだの涙をぬぐうこともせず、哀原さんといっしょに泣きつづけた。
「書かなくていいじゃないですか」
 オレは号泣しつつ、震える声でもういちどそう繰り返した。

*    *    *

 あれから1年がたった今日、オレは久しぶりに哀原さんと再会することになっていた。
 哀原さんは妹さんがオフィス街に開いている喫茶店を手伝うようになっていて、店が休みの週末にしか時間がとれないのだ。
 オレと哀原さんは文芸社の1階ロビーで再会した。
「お久しぶり」
 と哀原さんが微笑んだ。
 彼女はすっかり元気をとりもどしているようだった。
「出版おめでとうございます」
 オレが言うと、哀原さんの笑みがさらに大きくなった。
「あなたのおかげだわ」
「とんでもない」
 哀原さんは、礼君との別れの場面を書かなかった。著書には礼君が元気だった頃の思い出だけがつづられている。
「こうして本が出版できたのも、あなたが“哀しいことは書かなくていい”と言ってくれたおかげだわ」
 オレは照れ笑いを浮かべた。
「この本を開くと、わたしはいつでも礼に会うのことができるの」
 哀原さんが言って、できあがったばかりの著書を抱きしめた。